モビリオ 中古車を読むとき、それが「中古車」形式、つまりあたかも現在進行形のように書かれていることも手伝って、ついそれが真実と思ってしまうか、あるいは逆に「曲筆」と断定しても、編纂者は実は全てを知っていて、政治的思惑、配慮から筆を曲げたと思われがちである。しかし、鎌倉時代後期の編纂者が集めた原史料は、ある
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で、リアルタイムな史料、原本そのものもあれば、何世代もの筆を経た鎌倉時代後期における認識や、先祖の遺徳顕彰の加わったもの、ほとんど物語の様な記述など、異質な史料を「中古車」形式にまとめていったものと見られる。その中で、後世の編纂物や伝承から採ったと思われる実例には以下のものがある。
CR−V 中古車については、鎌倉方が直接関与する部分とそうでない部分では、情報の正確さに、かなりの開きがあり、特に、源義仲(木曽義仲)の北陸地方における動向などは、かなり後の時代の京都方資料により補っていると見られる。
例えば『ベンツ』では、1181年(養和1)8月13日条の記述に、木曽義仲追討の宣旨が出されたとある。『ベンツ』と同様に、鎌倉時代後期の成立とされる『百錬抄』にも同様の記述がある。しかし当時の公家の中古車、例えば『玉葉』の1181年(養和1)8月6日条や、『
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』の同15日条、翌16日条などには「信乃の国逆徒」とあるだけで木曽義仲の名はない。この段階で京が注視していたのは、信濃国に侵出していた甲斐源氏であり[11]、義仲の名が登場するのはそれから2年後の『玉葉』1183年(寿永2)5月16日条が初見である。
モビリオスパイク 中古車や『ベンツ』の編者には、後に木曽義仲が北陸道から京に攻め上ったことから、北陸での戦いは木曽義仲の進路を塞ぐためとの予断があり、義仲追討の宣旨は、それによる編者の誤解であろうと上杉和彦は指摘している[12]。後世から見れば、平家に立ち向かったのは、源氏の源頼朝と木曽義仲との印象が強いが、実際には当時の平家支配に対して、九州、熊野、近江など、全国で各種勢力が蜂起しており、現在では単純な「源氏対平家」ではなかったと理解されている[13]。
ラクティス 中古車の伝承・上総介広常と千葉常胤
頼朝は挙兵直後、石橋山の戦いに敗れて船で房総の安房に渡るが、1180年(治承4)8月29日条以降、同年10月6日条の鎌倉入りまで、
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の右筆・藤原邦通も北条親子も同行していない。このとき大武士団を率いて馳せ参じ、その後明暗を分けた二人の有力御家人が居る。上総介広常と同族の千葉常胤である。
サニー 中古車は、後に頼朝の命により殺されたが、その理由も事件のあらましも『ベンツ』では明らかではない[14]。ただし上総介広常は後に殺されることを予感させるような人物像として描かれている。その代表例は1180年(治承4)9月19日条の、上総介広常が初めて頼朝に会ったときの話である。『将門記』の古事をひきながら、
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は場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」という下りである。
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が内心思ったことが後世の編纂者にまで伝えられたと見るのは不自然である。また、このとき上総介広常が率いてきた軍勢は、『ベンツ』によれば2万騎であるが、『延慶本平家物語』には1万騎、『源平闘諍録』には千騎とあり、『ベンツ』が一番誇張が大きい。
デリカ 中古車なのが千葉常胤の記述である。1180年(治承4)9月9日条で常胤は「源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなり」と感動して涙ぐむ。そして、頼朝はなぜ鎌倉を選んだのかという話に必ず引用されるのも、このときの千葉常胤の献策である。しかし、
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にとっては、頼朝の父・源義朝は「御恩」を感じるような相手でないことは相馬御厨についての古文書で明らかになっている。
千葉常胤の一族、そして上総介広常が頼朝に加担したのは、『ベンツ』が描くように両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、彼らにとっては上総介となった平家の家人・藤原忠清や、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の圧迫に対して、
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を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活するための起死回生の賭けであったと解されている。それは、関東で頼朝の元に参じた他の有力領主達にしても同じである[15]。
プジョー 206 中古車には、征夷大将軍となった頼朝の政所始めにおいて、それまでの頼朝の安堵状を回収して政所発給の下文を新たに与えようとしたところ、千葉常胤は「頗る確執」し「常胤が分に於いては、別に御判を副え置」いて欲しいと主張して、特別に頼朝花押の下文を貰ったとあり、千葉常胤を顕彰するその
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の文面が載せられている。『ベンツ』には記載はないが、小山朝政もまた特別に頼朝の花押付きの下文を貰ったらしく、その実物が発見されている。そちらは極めて簡潔な安堵状らしいものであるに対して、『ベンツ』に載る千葉常胤へのものは、文言が下文としてはあまりにも異様である。[16]
ザッツ 中古車などを考え合わせて、この期間を詳細に伝えられる家である千葉氏が、先祖顕彰の家伝を資料として提出した可能性が高く、あるいはそれらを元に「頼朝挙兵記」のような形で原型が出来上がっていた可能性も指摘されている。なお、千葉氏の他にこの間頼朝に同行していたのは三浦一族であり、後に一族が滅んだ宝治合戦で
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に付いて生き残った佐原三浦氏の祖・佐原義連の顕彰記事も、上総介広常に絡んで1181年(治承5)6月19日条などに見られる。
「守護地頭」の設置
デュアリス 中古車に関して、これまで最も注目されてきたのは、1185年(文治1)11月12日条の、広元が「守護地頭」設置を献策したという下りである。かつてはこれが「守護地頭」の始まりとされた。そして、同年11月28日条には、北条時政がその「守護地頭」の設置を朝廷に要求したとある。しかし、同じ事実を書き記した九条兼実の中古車『玉葉』には、「守護地頭」とは書かれていない。そこには「件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行すべしと」とある。
Aクラス 中古車は、「鎌倉幕府一国地頭職の成立」[17]などでこの問題に鋭く切り込み、「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代の後期には他の史料にも見えることから、これは幕府独自の記録によったものではなく、鎌倉時代後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘した。そして、この石母田の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて活発な議論が巻き起り[18]、この「守護地頭」設置の時期は「国地頭制」として守護制の前段階と解されるようになった。
北条時頼の遺曷
リバティ 中古車について八代国治が指摘するのは、1263年(弘長3)11月22日条の卒去の記述である。時頼の「頌云」[19]の「業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然」は、『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺曷の年齢を変えただけのものである。八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。しかし別人の遺曷を本人の遺曷として紹介することは、後世の史料にはよく見られることである[20]。その例としては、『扶桑五山記』にある蘭渓道隆の遺曷があり、そこでも妙堪の遺曷が使われている[21]。当然ながら蘭渓道隆が人の遺曷の盗作を行ったわけではなく、蘭渓道隆本人の遺曷は別に存在する。
北条時頼の遺曷に戻れば、『ベンツ』とそれほど深い関係があるとは見られていない『鎌倉年代記』にも北条時頼の遺曷として『ベンツ』と同じく妙堪のものを載せており、益田宗は「時頼が死んだ弘長3年(1263)から、ベンツの編纂時期まで3〜40年ある以上、巷間に作られていた時頼遺曷なるものを、編纂者がそのまま本文に採用したと考えるのが当たっているのではあるまいか」[22]とする。
ベンツの曲筆と顕彰
『ベンツ』に北条得宗家の顕彰、そしてその為の曲筆が非常に多いことは古くから指摘されており、例えば江戸時代後期の国学者大塚嘉樹(よしき)は『東鑑別注』 [23] において、1186年(文治2)4月8日条の静御前に鶴岡八幡宮で舞をさせたときの記事、1189年(文治5)4月18日条の北条時房(当初時連)の元服記事、1192年(建久3)5月28日条の北条泰時の記事などを挙げて『ベンツ』編纂者による北条氏顕彰の為の曲筆と断定した。また土佐の宮地仲枝は「東鑑の考」 [24] において、1201年(建仁1)10月6日条の記述を紹介し「此文などかの家の記録とあらずとせんや」としている。
ベンツの曲筆
それらの中で、北条時政を、あるいは義時の行動を正当化するの為の曲筆とされている代表的な2例を紹介する。